ありがとうございますm(__)m
毎日、毎日、いろいろな人たちから
ブログ見たよと、
応援や、励まし、心配のメール、連絡をたくさんいただいています。
募金箱にも、順調にお気持ちいただいております。
このまま、どんどんと輪が大きくなっていくことを、強く望みます!!
一人でも多く、周りの人に伝えていただければ幸いです。
よろしくお願いしますm(__)m
とにかくやります!!
僕たちに力を貸してください。
繰り返し言いますが、公共の募金と違い、
新潟維心会とコアクルーは、皆様からお預かりしたお気持ちは
100%被災者の方々にお届けします!!
一応言うなら、移動のためのガソリンなど、一切がっさいの経費も、
すべて自腹なので、ご安心ください。
そんな中、
昨日、朝1本の電話をいたただきました。
「ブログ見たよ。全面的に協力するから、自分たちにできることは、何でも言ってくれ。
炊き出しするなら、必要なものはうちに全部揃ってるから、器具も食材もすべて持って行っていいよ」
と。
FPFの竹石さんからでした。
竹石さんは、あらゆるイベントに、食べ物のブースを出店されている会社の社長さんです。
一家の木戸時代からのお客様でもあります。
竹石さん自身も、もうすでに、2回炊き出しに行かれているそうです。
現実問題、今この自粛ムードの高まる世の中の状況の中、良い悪いは別にして、
日本各地でも、イベントというイベントは、中止が相次いでいます。
そうなってくると、竹石さんにとっては……
分かりますよね。
それでも、竹石さんは、
「今は、会社がどうのこうの言ってる時じゃない。現地を見れば何もしないわけにはいかないだろ。
こんな時だからこそ、炊き出しのプロである俺たちがやらなきゃ。
おれは、今やっと、ほんとにこの仕事しててよかったと思ってるよ。」
と。
言えますか?
ぼくは、竹石さんが大好きです!!
たぶん、きもち悪いって言われると思いますけど…
お言葉に甘えて、お力貸していただきます。
ありがとうございますm(__)m
そして、夜は一家に来ていただきました(●^o^●)
重ねがさねありがとうございますm(__)m
そのあと、またもうひとつうれしいことが!
先日、専修大学でお会いした、
兵庫から、駆けつけて、被災者の方々をお世話されてたボランティア団体の方が、
交代で一旦、兵庫に戻る途中に一家に来てくれました。
「ホンマにめっちゃ上手いねんな!」
「この前はありがとう。みな、あんたらに期待してるで。力貸してな。一緒にがんばろう!!」
と、お互いちょっと涙ぐみながら、熱い握手をさせていただいて、お帰りになられました。
これも、また、うれしい出会いですね。
毎日、思います。
自分たちは、ほんとに微力です。
そのことを、ちゃんと分かったうえで、
できることでいいから、とにかく精一杯やろうと!
明日は、朝から、物資の積み込みです。
1人でも、おおくの人が、瞬間的にでも笑顔になれるように、頑張ります。
ひとつ、号泣した記事があったので、よかったら、
japan business pressの記事より
↓ ↓ ↓
「自分が行きます!」
全ての隊員が口を揃えた。福島第一原発に放水をするため、陸上自衛隊のヘリコプター「CH-47」が出動することになった時のことだ。
「任せろ、これくらい大したことはないさ」「今、無理しなくてどうする」
被曝覚悟の作戦にもかかわらず、そんな声があちこちから聞こえてくる。
同原発では、3月14日に3号機で放水作業中に水素爆発が起き、4名のけが人も出た。その中には、中央特殊武器防護隊長もいた。事故に遭った隊員は後送されるのが通常だが、隊長は下がることを強く拒んだという。
「あの、温和なアイツがそんなことを・・・」
同期の幹部自衛官が絶句した。とても、そんな無理をするタイプに見えなかったが、何が彼にそう言わせたのだろうか。
車座になって涙を流す隊員たち
原発への放水作業だけではない、被災現場での救援でも厳しい状況は同様だ。氷点下の気温の中で作業を続けるが、燃料を使うわけにはいかないと、暖をとることもない。持っていた隊員用の携帯糧食を、迷うことなく被災者に渡す隊員ばかりだという。
空腹の中で作業を終え、ドロドロになった戦闘服を脱ぎ、翌日、またその同じ服を着て出ていく。それは「昨日の記憶を背負いながら行く」ことでもある。
目を瞑ると、目の当たりにした遺体の残像が浮かんでくる。それは阪神・淡路大震災の時も同じだった。
当時、若かった隊員が、現在は曹長などリーダーになっており、その経験からか、誰が命令したわけでもなく、夜は5~6人の作業部隊が車座になるのだという。
つらかった光景、ひどく悲しかったことなど、黙々と作業をし続けたその日の全てのことを声を出して吐き出し、そして泣く。やがて、明日も任務を精一杯やろうと誓い合って、一日を終えるのである。
東北の隊員は、全国から派遣されている部隊を気遣い、申し訳ないという気持ちと、自分たちは、一層頑張らねばならないという思いがあるしかし、彼らは被災者でもある。家族や肉親を失っていたり、今なお、愛する人が行方不明となっている隊員も多い。
遺体を発見した時に「自分の家族では」という思いが頭をよぎっても、任務に私情は挟めない。
「今、行かなければ一生、後悔する」
救援活動の中心となる隊員は、19歳から25歳くらいの若者ばかりである。中には地元で知られる「ワル」だったり、不良グループのリーダーをしていたような隊員もいる。それを40~50代の、いわば「オヤジ」たちベテランが支えている。
「人生経験も未熟で感受性豊かな世代が、人の生き死にを目の前にして、まして肉親の所在も分からないままなのに、感情を抑え続けて、心が折れないはずがありません。彼らは制服を脱げば普通の若者です。気持ちを打ち明ける時間をつくることは、大事なんです」
収容した全ての遺体に手を合わせ、遺体安置所まで運ぶことが自衛隊の任務だ。彼らは安置所に入り、自分の家族を探すことはできない。入り口で、運び込んだ遺体の冥福を祈り、また現場に戻っていく。
また、多くの隊員が妻や子を残して出動している。残された家族はさぞかし心細いだろうが、「この国難に弱音は吐けない」と、気丈に家を守っている。
自衛官の死亡・行方不明者は計3名。空自・松島基地の隊員1名が死亡し、陸自・多賀城駐屯地(第22普通科連隊)所属の陸曹の死亡が確認された。
行方不明の隊員もいる。最後まで避難誘導し、津波に飲み込まれるのを住民が見ている。
仲間や家族の死に直面しても、今日も活動は続いている。すでに生存可能な時期を過ぎ、遺体を安置所に運ぶことが続くが、担架なども不足しているため、おぶって運んでいるという。
予備自衛官も投入されることになった。「今、行かなければ一生、後悔する」と言う息子に、母親は「家のことは私たちがなんとかするから」と言って送り出したという話も聞いた。
阪神・淡路大震災を経験した自衛官は言う。「日頃、いろいろと問題を起こすヤツもいますが、国難にあたってはすさまじい使命感でやっています。かつて、この国を守るために特攻隊で散華したのも若者たちでしたが、今、被災地で活動している彼らに重なります。彼らと同じ制服を着ていることを誇りに思います」
初めて敬語でメールを送ってきた娘
地震発生以来、東京・市ヶ谷の防衛省では、陸海空の自衛官が戦闘服姿になり、臨戦態勢でそれぞれの任務に当たっている。多くが一度も帰宅していない。
労をねぎらうと「現場はもっと大変ですから」と言い、すぐにでも現場に行き、共に活動したいと口を揃える。
19階建ての庁舎では、節電のために皆さんが階段を上り下りする姿が目立つ。慌しくすれ違った叩き上げのベテラン自衛官が、ふと立ち止まり、振り返って言った。
「そういえば、娘から初めて敬語でメールが来ましたよ」とちょっと恥ずかしそうに言った。
その内容は、「日本に生まれ、自衛官の娘に生まれて良かったです。お父さんを誇りに思います」とのことであった。
「明日から、現場に行ってきますよ」。そう言って、すぐに階段を駆け上がっていった。
復興に向けて、自衛隊の戦いはまだまだ続く。